青木信用金庫    
 融資/渉外 

(戸田支店/北支店)

〇伊田テクノス      

 経理・人事・官庁営業支援

〇東松山市社会福祉協議会 

 会計統括

〇中堅税理士法人    

 社会保険労務士

〇中小企業グループ    

 事務指導・企業再生



 お金にかかわる仕事、主に経理畑を歩んでまいりました。
地元の信用金庫を卒業し、JASDAQ公開企業の伊田テクノスに経理職として就職。上場廃止に伴う人事異動により、官庁営業支援部署の管理者へ、その後社会保険労務士試験に合格したことで人事へ異動。
上場時の監査法人対応、全社員大会での官庁営業支援成果の表彰、事務部門(経理・官庁営業支援・人事)を横断的に担当させていただくなど、貴重な経験をさせていただきました。

30代後半より、職員数300人強、県内2番の職員数を誇る東松山市社会福祉協議会で会計統括、40代前半より、職員数40人弱、上位人材が集う中堅税理士法人での社会保険労務士を経て、建設業を中心とした企業グループで、事務指導・企業再生を担いました。
さまざまな会社でさまざまな業務を積み重ねてきた結果、財務・経理・許認可・入札支援・人事・事務指導・経営改善と、幅広い経験、そして経営者のみなさまのお役に立てるスキルを身につけることができました。

サラリーマン時から、各社からの様々な課題を解決して参りましたので、社会保険労務士/行政書士業務にかかわらず、経営者のみなさまが抱えている課題がありましたら、まずはお気軽にお問合せください。
当事務所で解決できない課題も、連携士業と共に、解決のサポートをいたします。



保有資格

行政書士 
社会保険労務士 

宅地建物取引士 

マンション管理士 
1級建設業経理士 
金融業務能力検定融資上級
ファイナンシャルプランナー2級 
全国手話検定2級































































(アナザーストーリー) 
「偏差値29・対人恐怖症・コミュニケーション飢餓からの逆転?」


 幼少の頃の写真は、女の子の服装をした女の子が写っています。親は、女の子が欲しかったらしく、女の子として育てられていました。幼稚園の頃から、無理やりエレクトーンを習わされ、女の子に囲まれて過ごしていました。かつての写真を見ると、多数の女の子のテーブルに男の子は私だけです。今思えば贅沢な話ですが、当時は女の子のような習い事が嫌で嫌で仕方がなく、恥ずかしく感じていました。その結果、心は優しいものの、メソメソ、ナヨナヨした男らしくない性格に育ってしまいました。

それでも、友達とゲームウォッチやファミコンで遊び、カップラーメンのおいしさを覚え、お風呂でおならをすると激痛が走ることを学び、卒業式でエレクトーンを演奏するような、比較的まともな小学生生活を過ごしました。


 ところが、中学生になると状況が一変します。勉強が大の苦手で、クラスでビリを争うような落ちこぼれでした。裏腹に親は教育熱心で、中学1年生から塾(あずま進学教室)に強制的に通わされてしまい、授業について行けず、塾に行かずにデパートの本屋で漫画を立ち読みして帰るという、親に嘘をつく生活が続きました。

当時、北辰テストという偏差値が出るテストがあったのですが、全てがひどく、特に英語が苦手で、偏差値29だったこともあります。今思えば、強制させられる教育方針がすべて裏目に出てしまっていたようです。

担任と親との進路相談では「高校に行けない」と言われ、西浦和にある専門学校を受験しましたが、同時に受けていた小松原高校(当時偏差値30代)浦和実業高校商業科(当時偏差値50位)、そして浦和東高校(当時偏差値50位)に、見事合格しました。


 結果、自宅から自転車で10分の浦和東高校に通い、友達にも恵まれ、「ドラゴンクエスト」を買うために徹夜で並んだり、じゃんけんで「デコピン」をしあったり、焚火をして焼き芋を焼いたりと、冴えないグループの中心メンバーとして、冴えない青春を謳歌していました。

なぜか通知表は、体育・家庭科・美術以外は4と5しかありませんでした。2年か3年か忘れてしまいましたが、評定平均は4.2でした。高校の雰囲気として勉強する風土がなく、またカンニングする度胸はなかったので、もしかしたらテスト前のやっつけで、うまくやったのかもしれません。

そして、周りに流されるかのように浪人、東進ハイスクールの「明青立法中クラス」に通い、深夜の宅急便の仕分けのアルバイトも頑張り、中央大学、法政大学等10の大学・学部を受験、国学院大学、東京経済大学等、5つの大学に合格し、〇〇大学に進学しました。
※当時はマーチというゴロはなく、「早慶上智」「明青立法中」「日東駒専」にクラスに分かれていました


 当時、笑っていいともでタモリ(森田一義)が埼玉県民はダサい「ださいたま」という風潮を吹き込んでおり、入学当初は埼玉県民であることがバレてしまわないか、オドオドしていました。田舎者というコンプレックスで、人目が怖く、人と目を合わせることができませんでした。これまで気づかなかったのか、大学デビューしたのか、自分が「対人恐怖症」であることを自覚した始まりでした。

ただ、幸いなことに、友達に恵まれ、サークル活動や、新宿、池袋で過ごすようになり、「対人恐怖症」であることは、いつしか忘れ、それなりの大学生活を満喫しました。また、就職活動に備え「宅地建物取引主任者」という、人生で初めての資格を手にしました。

漠然と知識を扱う仕事をしたいと思い、金融、不動産に絞り就職活動をしました。私が就職した年は、三洋証券(準大手証券・1997年11月3日破綻)、北海道拓殖銀行(都市銀行・1997年11月17日破綻)、山一証券(大手証券・1997年11月24日破綻)が同月に破綻するという、ドラマを上回る現実世界、金融不安、就職氷河の時期でしたが、5社から内定をもらい、「青木信用金庫」と、「水戸は水戸でも水戸証券」で迷いましたが、営業は無理ということで、青木信用金庫に入庫しました。


 青木信用金庫では、同期が30人いました。同期に恵まれ、那須にある会社の保養所へ旅行に行ったり、朝まで飲み明かしたりと、楽しい社会人生活が始まりました。大学4年間同様、私にとっての青春が続きました。最初の配属は、戸田支店の融資係で、融資窓口を担当していました。手形割引、手形貸付、証書貸付の対応をしたり、日銀や大蔵省監査の準備をしたり、また、当時は銀行や証券会社がいくつも潰れ、大不況でしたので、国の制度融資である「金融安定化資金」というザル融資(最近でいうコロナ融資の類い)の対応をしていました。

また、入庫3年目で金融業務能力検定の「融資上級」という試験に合格し、人事部長が直接支店に祝い金を手渡しに来たこともありました。ただ、それをピークとして、辛くて苦しい灰色の日々が始まりました。なんと、融資から渉外(営業)へ異動となり、再び「対人恐怖症」と対面することになるのでした。


経営指針
    
大きな目標  
しつこさ  
知っている・できる・やる 
細分化しタスクキル
我を無くして行動し続ける